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『東京慕情』

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2014年 07月 29日

集団就職・下

『あゝ上野駅』 望郷の応援歌
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 集団就職者たちの孤独と、ともすれば挫けそうになる心を支え続けた一曲の歌がある。昭和三十九年、今は故人となった伊沢八郎が歌って大ヒットした「あゝ上野駅」である。それは彼らに勇気を運んだ人生の応援歌であった。

※東北から上野駅に着いた集団就職の生徒たち。前途には希望と不安が・・・=昭和38年3月、上野公園口にて
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 青森から集団就職列車第一号が東京へ向かったのは昭和二十九年四月五日だった。地元紙の東奥日報はその時の光景をこう伝えている。

 「プラットホームに蛍の光が流れる。『しっかり頑張って』『元気でやれえ』と励まし合っていた人並みが列車から離れると少女たちはみんなハンカチで顔をおおってしまった。ベルが鳴る。少年たちはほおを赤くし少女たちは涙の顔を上げた」

※会社の人に歓迎される集団就職の少年。高度成長のころ、彼らの労働力は貴重で「金の卵」と言われた=昭和39年、大田区で
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 横浜市樽町の精密機器会社で営業部長を務める佐藤義勝さん(62)も青森から上京した集団就職者の一人である。故郷の中津軽部相馬村(現弘前市)から上京したのは昭和三十五年春。そのとき弘前駅ホームで見送ってくれた母親の顔が今も目に浮かぶ。

 「あのころの東京は遠い大都会で、誰もが不安を抱いての旅立ちだった。私のおふくろは何も言わなかったけど、そのまなざしは私を温かく励ましてくれました。大丈夫、元気でがんばるんだよと・・・」

 蒸気機関車に揺られ、朝早く上野駅十八番ホーム(通称就職列車ホーム、今はない)に着いた佐藤さんは、当時大田区にあった今の会社に電車で向かった。学生服にボストンバッグ。そのころ流行していた白いダスターコートを着て。布団と柳行李は列車便で先に送っていた。それがすべての財産だった。

 会社は小さく、自分の居場所は寮の二段ベッドの一つ。「やっていけるだろうか」。その不安は社長に初めて面談した時消えたという。豪胆で温かい人柄。しかも青森出身で、苦労を重ねて会社を築いた人だった。津軽弁でやりとりするうち心が和み、ここで頑張ろうと決意する。

 だが仕事はきつく、生活は苦しかった。当時の日本は、高度成長に向かって経済が活発に動き始め、どの企業も忙しく残業は当たり前だった。佐藤さんも夕方五時の終業時もコッペパン二個をお茶で流し込み、再び夜十時まで真っ黒になって働いたという。

 当時の月給は五、六千円。うち幾らかは田舎の親に仕送りした。貧しい暮らしの中で育ててもらった恩返しである。親元を離れて異境の地で働く子はみんな、そうやって家計を支えたのだ。わずかなカネでも故郷の親はうれしかったに違いない。後は食堂でご飯を食べれば給料は消えた。「このままじゃあ前に進めない」。そう思って佐藤さんは翌年から定時制に通い始めた。五時まで働いたら駆け足で学校に行き勉強が終わるとまた残業に励んだ。

 「腹はすくし金はない。やむなく上京するとき親が買ってくれた腕時計を質に入れて空腹をしのいだ。でも親の願いがこもった記念だから絶対に流さなかった。入れたり出したりして幾度助けられたことか。時計は私にとって何にも代えがたい宝物。だから今も大切に持っています」

 東京での日々は孤独で、望郷の思いが離れなかった。今ごろみんなどうしているか、親は元気だろうか。佐藤さんは逃げ出そうと思って何度も上野駅まで行ったという。「ここから列車に乗れば親の元に帰れるんだと思ったら、なんとなく安心感が生まれて、また頑張ってみようかと勇気がわいてきたんです・・・」

 そのころ佐藤さんたち集団就職者の心をとらえた一曲の歌がはやり始めていた。伊沢八郎歌う「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一)だった。街に流れる歌を聴くたびに故郷を思い胸が熱くなったという。

 「どこかに故郷の香りをのせて/入る列車のなつかしさ/上野はオイラの心の駅だ・・・」

※集団就職の子供たち=昭和39年3月18日、浅草公会堂
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 東京には青森県人昭和会という親睦会があり、佐藤さんも会長を務めたことがある。その会でも「あゝ上野駅」はいつしか会員の応援歌となっていく。

 「今も毎年、会で旅行していますが、宴会では必ず二回合唱します。一回目の歌で故郷の情景や上京当時が思い出されて胸が熱くなり、二回目になると懐かしさのあまり涙がとめどなく流れてきて。この歌はまさに私たちの人生であり、心の歌なんです」

 上京以来、今の会社一筋に四十六年。挫折、苦闘、郷愁・・・。夢のような人生だった。集団就職者の中には夢破れて会社を去った者は数知れない。転落したり消息を絶った者も・・・。

 「私の場合、初代社長と出会ったこと、仕事が好きで多くの人と励まし励まされたこと、そしてあの応援歌・・・。そんな幸せに支えられて、ここまで頑張れたんだと思います。だから皆さんに心から感謝しているんです」

 父は亡くなったが、母は今も佐藤さんが故郷に建てた家で暮らしている。八十五歳。第二の定年が終わった時、母の待つ故郷へ帰ろうか、こちらでもう少しがんばろうか・・・。郷愁の思いにかられて心揺れる日々である。(年齢などは連載当時のものです)

※沖縄から集団就職で上京した少年少女たち=昭和35年4年15日、晴海埠頭で
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# by tokyobojo | 2014-07-29 07:29