『東京慕情』

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2014年 07月 19日

深川木場・上

木の香匂い立つ 新春の街
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 江東区深川の木場が東京湾夢の島の新木場へ移転を始めたのは昭和五十年ころだ。江戸情緒を宿す木場も都市化や防災など時代の波には勝てず、ついに三百年の歴史を閉じたのである。

 移転から三十余年の歳月が流れ、かつて木材で埋まった木場をはじめ富岡、冬木、平野、東陽町などの街風景は劇的に変貌(へんぼう)した。しかし古老たちのまぶたには今も運河に生きた往事の日々が焼き付いて離れない。

 冬木と新木場で材木問屋を営む山口博司さん(70)は「木場には独特の風情があった」と懐かしむ。「粋で活気があって一日中ポンポン船の音が聞こえた。江戸以来の伝統と風習を守り、誰もが仕事に誇りを持っていたね」
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 昔から木場は新年を迎えると新しい木板の香りに包まれたという。木材を扱う店は新板に「賀正」と墨で刷り込んで店前に立てかける風習があった。木場の商売を支える木材に感謝し、門松のように立てて新年を祝うのである。それも単に立てるだけではない。どの店も「他の店に負けるな」と量や質を競い合って江戸っ子ならではの見栄(みえ)を張り合った。それらの木の香が匂(にお)い立ったのである。いかにも木場らしい風景ではないか。

 そんな街通りを門前仲町の料理屋の女将(おかみ)たちが着飾ってごひいきの旦那(だんな)衆へあいさつに回った。これも昔からの習わしである。近辺には花柳界があって昔から羽織ときっぷの良さが売り物の辰巳(たつみ)芸者もさっそうと行き交った。「その粋な姿にみんな見ほれた」という。芸者衆にとってもぜいと意地を尽くした年初の晴れ姿だったのである。

 移転前の木場には運河や掘割が縦横に走り、丸太が川面にひしめき浮かんでいた。「木場の子はそんな丸太の上で飛んだり走ったりして遊んだものさ。戦後はまだ運河や川もきれいで、みんな泳いだりハゼなんかもよく釣ったね」

 真水だけでは木が腐るし塩水だけでも貝が付く。ここの運河には潮の満ち干があって塩水と真水が入り混じり、木材には最適の環境だったという。

 「その木材の上を川並(かわなみ)が柄の長いトビ口のようなものを手に跳び回っていた。川並というのは材木の良しあしを仕分けたり、運搬もする木場独特の職人でね、半纏(はんてん)に紺の股引(ももひき)姿が実に粋でかっこよかったねえ」

 江戸から三百年の歴史を誇る木場も昭和二十年三月十日の東京大空襲で焼き払われた。山口さん宅も炎上したが、戦後すぐに父親がバラックを建てて商売を再開。紀州和歌山から建材を仕入れて売りさばいた。

 「当時は住宅はすべて木造だし、みかん箱だって何だって木だったから、仕入れたらすぐさばけた。とくに昭和二十七年の朝鮮動乱のころは戦後の復興も始まって景気が上向いてよく売れたねえ。木場は活気にあふれて毎日が楽しかったねえ(」

 建材は和歌山から機帆船で東京港まで運ばれ、ハシケに積み替えて木場へ運び込んだ。それを作業員が肩に担ぎ、船と岸辺を結ぶ「歩み板」の上を器用に歩いて陸揚げしたという。運搬船が途中で台風やシケに遭って到着が遅れることもあった。そんな時は材木相場が急騰する。買う方は大変な誤算だ。まるで紀伊国屋文左衛門が富を築いた〝ミカン船〟のような話である。

 昭和三十年代初めのころは、そんな木材の引き取りに馬車で来る人も多かった。荷台に木材を積み、馬がゆっくりと引いて永代橋を渡り、中央区新川あたりまで運んでいった。カッパカッパ…ひづめの音が響き渡り今では想像できないのどかな風景を描いたという。

 オート三輪車も活躍した。横長ハンドルで、ラッパのような警笛が付いていて箱形の荷台があった。これに木材を積んでバタバタと走ったのである。当時は珍しく、貴重な運搬車だった。でも普通の営業はまだ自転車が多く、炎天にペダルを踏んで埼玉あたりまで走った。タクシーを使うことはめったにない。みんな歩くかペダルを必死にこいで汗を流した時代である。

 あれもこれも木材を中心に木場が江戸から描き続けた伝統の風景だったが、移転とともに長い歴史に終止符が打たれ、町から木の香りが消えていった。材木が運河にひしめき合った懐かしい風景も今では遠い思い出となりつつある。
(関係者の年齢などは連載当時のものです)


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by tokyobojo | 2014-07-19 15:24


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