2014年 07月 27日
一円募金で生まれた校歌 ------------------------------------------- 校庭の真ん中でオルガンを弾く先生。それを囲み口をいっぱいに開けて、うれしそうに歌う児童たち。なんと生き生きとした表情だろうか。 昭和三十六年十一月七日。今から四十五年前の江戸川区立第二松江小学校。板張り校舎を背に児童が歌うのは、自分たちで始めた一円玉募金と母親たちの行商でためた資金で初めて誕生した校歌である。 同校は大正三年の開校以来なぜか校歌がなかった。それを作るきっかけとなったのは、その年の六年生のバス旅行だった。子供たちを引率した山下孝子先生(81)は今も「その時の光景をよく覚えている」という。 「バスガイドさんが歌った後、次は皆さんの校歌を歌いましょう、と言ったら児童たちは、私たちには校歌がありません、とうつむいたんです。その時私はこの子たちのために何とかして校歌を作らなくては、と思ったのです」 先生は学校に帰ると校長やPTAに訴えた。父母たちも「ぜひ作ろう」と賛同し、校歌制定の気運が盛り上がっていく。だが難点は資金だ。いい歌を作るためには専門家に頼まなければならない。父母たちの奮闘が始まった。当時、三代目PTA会長だった多賀幸二さん(89)と妻の豊子さん(84)がはるかな日々を思い出す。 「昭和三十年ころの学校は正門もない木造のオンボロ校舎で、雨が降ると授業どころではなく、みんなが雨漏りを受けるバケツを持って教室を走り回っていた。でも学校も地域の皆さんも貧しいけれど純朴で子供のために一生懸命でしたよ」 多賀さんは名古屋から昭和二十八年に当地へ来て、衣料関係の仕事をしていた。そのため得意先の衣料店を回って事情を話したら誰もが快く了承してくれ、大量のメリヤス肌着を提供してくれた。夫婦で何日も徹夜して値札を付けると、今度は児童のお母さんたちが立ち上がり、それを売り歩いた。 「皆さん、大きな風呂敷にメリヤスを包んで背負い、遠くまで行商に回ったんです。安い値段だからどんどん売れて三十数万円の利益がでましてね。あのころのお母さんたちは、子どもや学校のために自分から汗を流し苦労を買って出てくれてました。本当に立派でしたよ」 子供のために奔走する親の姿を見て児童たちも動きだした。「みんなで何かやろう」という声が広がり、先生の知恵を借りて話し合った結果、始まったのが一円玉募金だった。全校児童が自分の小遣いを節約して毎週一円ずつ持ち寄り貯金するのだ。当時、六年生学級委員で、集計を手伝った多賀恵子さん(57)は「大変だったけど楽しい思い出」と振り返る。 「当時は一クラス六十人以上いたから一学年三クラスとしても一回で一円玉が千百枚も集まった。これを数えるのは大変な仕事でした。みんなの思いがこもった一円ですからおろそかにできない。各学年が集めたものを六年生が屋上に持ってあがり、せっせと数えたものです」 たくさんあるから計算が合わない時が多い。一円が足りず幾度も数え直したこともある。それでも合わず誰かが「自分が出す」と言ったこともあったという。こうして一円募金は四万円にも上り、父母の行商分と合わせて念願の資金が準備できたのである。 選ばれた八人の校歌作成委員会は早速父母に歌詞の応募を呼び掛けた。苦労したみんなの思いと学校への愛情を歌に込めたいと思ったからだ。委員会は集まった歌詞の良いところを選んで校歌に仕立て上げ、それを専門の先生に託した。そして昭和三十六年十一月六日、第二松江小学校校歌が創立以来四十七年ぶりに初めて完成したのである。父母や全校生徒、卒業生の喜びはどんなに大きかったことだろうか。 「花の都の空晴れて 朝日輝く学びの園 ぼくもわたしも清らかに 夢を豊かに築きゆく ああ楽しい第二松江小学校」(校歌作成委員会作詞、阪本越郎補作、石桁真礼生作曲) 昭和三十八年ころから校舎は鉄筋に変わり、懐かしい木造校舎は次々と消えていく。大きな口を開けて一生懸命歌った児童たちも、すでに五十七歳を越えた。あの日から、それぞれの方はどんな人生を送ったことだろうか。 オルガンの音が校庭に流れた日から四十五年。過日、同校を訪ねた。応接室には当時の校歌作成委員の寄せ書きが今も飾られていた。校歌を歌うあの懐かしい児童の写真を吉田清重校長にお見せすると感嘆の声を漏らした。 「みんな実に素晴らしい顔をしていますね。子供はいつの時代も純真です。そんな優しい心を長じても失わないよう私たちも家庭も、そして国も力を尽くしていかなければいけませんね」 休み時間の校庭では、あの日と同じように子供たちの歓声が響き、笑い声が弾けていた。 (年齢などは連載当時のものです) TOP頁へ
by tokyobojo
| 2014-07-27 07:27
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アバウト
著者プロフィール
田中哲男(たなか・てつお) 昭和39年東京新聞(中日新聞東京本社)入社。社会部、特別報道部などを経て横浜支局長、特別報道部長、東京中日スポーツ総局長、編集委員などを歴任。自著・共著に「富士異彩」(平成7年度日本新聞協会賞)「翔べカルガモの子よ」「今どきの若者たち」「荒川新発見」など。平成16年、東京新聞創刊百二十年を記念して横浜の日本新聞博物館で「創刊百二十年展」を担当、同時に本紙の歩み「日々激動」を長期連載、出版。近著に「焦土からの出発」。平成19年度中日新聞社特別功労賞。東京生まれ。
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