2014年 07月 26日
極貧に捧げた 28歳の青春 ------------------------------------------------ 慈愛に満ちた笑みをたたえ、貧しい子供たちと手をつなぐ若き女性。まるで映画「二十四の瞳」(壺井栄原作)の高峰秀子演ずる大石先生と教え子のように心温まる風景ではないか。 彼女の名前は北原怜子(さとこ)。いつ誰が名付けたか「蟻の町のマリア」という。戦後の貧しい時代に純粋な奉仕愛に身をささげ、わずか二十八歳の短い生涯を閉じた“焼け跡の天使”である。 そのころ蟻の町を支援していたゼノ修道士の元を一人の若い女性が訪れた。それが当時二十歳の北原怜子だった。裕福な大学教授の娘に産まれ、キリスト教の洗礼を受けた怜子は修道士を通して蟻の町に出会い、住人の貧しい暮らしに衝撃を受ける。そして、ここに身を埋めて奉仕に生きる決心をするのだ。 蟻の町が当時、もっとも心配したのは強制立ち退きだった。戦後の混乱期に都の土地を占拠していたからだ。それを防ぐため松居は孤児救済者として有名なゼノ修道士と清楚な怜子の協力を仰ぐことになる。この年の暮れ、二人の協力でクリスマスが盛大に行われ、翌年夏にはバラックながら聖堂が建てられ、屋根に手作りの木の十字架が高く掲げられたのである。聖堂を無慈悲に壊すすことはないだろう。強制撤去を逃れるため考えた窮余の一策だった。 昭和二十七年十一月、怜子は正式に蟻の町に移住する。「貧しい人を救いたい」という願いは豊かな人の思い上がりだと住人に責められ、回収業者になってともに暮らそうと決心したのだ。はじめは「教授の娘の道楽」と冷たい目で見る人もいたが、怜子は暗い三畳間に住んで子供たちに歌や勉強を教え、リヤカーを引き、かごを背負って廃品回収に出た。子供の破れ服を繕い、お金がたまると子供を連れて箱根へ旅したこともある。 新聞はいつしか怜子を「蟻の町のマリア」と書くようになる。純粋で打算のない献身的な愛はまさに、極貧の町を照らす太陽だったからだ。 だが貧しい暮らしと無理な生活がたたり怜子はやがて胸の病におかされ、床につくようになっていく。町には満足な栄養も薬もない。「せめて自宅へ帰ってゆっくり治療を」と周囲も心配し進めたが彼女は町を離れようとはしなかった。そこが彼女の生きるすべてだったからだ。やがて衰弱が進み子供への奉仕も、ともに遊ぶこともできなくなった彼女は気力さえも失っていく。そんな彼女を会長は枕元で励まし続けた。「マリアはみんなのそばにいるだけでいいんだ。なにも心配するな」と。 昭和三十三年一月、東京都の申し出で、蟻の町は現在の江東区潮見への移転が決まった。その交渉の朝、会長が部屋をのぞくと、彼女は密やかな微笑を浮かべて見返した。まなざしに万感の思いを込めて。「彼女は布団からロザリオを握った細い腕を出してゆっくり振ってみせ、十字架を口に近づけて接吻した。彼女はもうほとんど口をきくこともできなかった」(松居桃樓「蟻の町のマリア」)。 その三日後の一月二十三日朝、怜子は新しい蟻の町を見ることもなく、二十八歳の短い生涯を終えた。「今日までずいぶん長かった」というのが最期の言葉だったという。それは蟻の町での奉仕の日々がいかに充実していたかを物語っていよう。 葬儀は蟻の町で、多くの住人や信徒が参列して営まれた。蟻の会と歌で結ばれていた若き日の森繁久彌さんが後日墓前で「生きているマリア」を子供たちと絶唱。東京新聞はその姿を写真入りで伝えた。 「貧しい人たちとの多くの出会いによって彼女は上から見下ろすまなざしや自分本位の考え方から浄化され、人間の真の解放へ向かったのではないか。その過程で深い愛情を身につけたのだと私は思いますね」 マリアの慈愛がこもるバラック屋根の木の十字架は風化の跡を刻んだまま今も潮見教会聖堂に飾られ、訪れる多くの信徒たちを温かく見守っている。(年齢などは連載当時のものです)
by tokyobojo
| 2014-07-26 07:26
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アバウト
著者プロフィール
田中哲男(たなか・てつお) 昭和39年東京新聞(中日新聞東京本社)入社。社会部、特別報道部などを経て横浜支局長、特別報道部長、東京中日スポーツ総局長、編集委員などを歴任。自著・共著に「富士異彩」(平成7年度日本新聞協会賞)「翔べカルガモの子よ」「今どきの若者たち」「荒川新発見」など。平成16年、東京新聞創刊百二十年を記念して横浜の日本新聞博物館で「創刊百二十年展」を担当、同時に本紙の歩み「日々激動」を長期連載、出版。近著に「焦土からの出発」。平成19年度中日新聞社特別功労賞。東京生まれ。
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