2014年 07月 24日
水没の町 孤軍奮闘の若者 足立区千住元町の藤木二幸さん(82)は「この時の台風には忘れられない思い出がある」と言う。隅田川と荒川に挟まれた元町一帯も濁流に襲われ、近隣から藤木さん宅に十余人の小学生が避難してきた。 「当時、近所は平屋が大半で二階建ての家はうちくらいだった。それで近所の人が子供を預かってほしいと。親たちは家に残って洪水から家財や畳を守ったんです。困った時は向こう三軒両隣が助け合った時代でしたね」 奥さんの秀子さん(83)はこの時臨月だったが、子供たちの食事を作り懸命に世話をした。当時、テレビのある家は少なく近辺では藤木さん宅だけだった。だから子供たちは台風の怖さを忘れ、テレビにかじりついて大喜びで見ていたという。 「そのころ町には子供もたくさんいて広場や道で元気に遊んでいた。みんな顔見知りでね。幼い子の子守なんかもしてね。近ごろは路地裏で子供が遊ぶ姿なんかもめったに見ない。人情も薄くなってさみしいですよ」 臨月の秀子さんが倒れたのは台風が去った後である。炊事や世話をするうち体が冷えて体調を崩してしまったのだ。近くの産院に運ばれ、懸命の治療が続き、やがて意識を取り戻しなんとか無事に出産することができたが、三日三晩も生死の境をさまよい続けたという。 「あの時は心配で夜も眠られず、神に祈るような気持ちだった。だから息子が無事に生まれた時は本当にうれしかった。妻には心から感謝したね。誕生は忘れもしない昭和三十三年十月八日。その息子も、もう四十八歳です」 この台風では、被災者救助に孤軍奮闘した一人の若者の話が今も語り草だと、藤木さんは言う。同区梅田の区役所出張所にいた当時二十五歳の職員。名前は鈴木恒年という。実は前任の足立区長である。あれから半世紀の間に鈴木さんの人生も激変したが、あの水害の日々は「忘れられない体験だった」と振り返る。 「九月二十六、七日だったと思う。ものすごい暴風雨になって急激に水かさが増し、町が浸水し始めた。荒川決壊の情報が飛び込み、これは異常だ、危ない。そう思って所長や女性や高齢の職員たち五人全員を返して、若い私一人が残ったんです」 その瞬間から不安と孤独との闘いが始まった。木造平屋の所内に流れ込む濁流。鈴木さんは机の引き出しや書庫を高い所に上げ、十二畳部屋の畳をいすの上に幾重にも積むと、その上に“牢名主”のように座って一夜を明かした。翌朝、梅島支所から電話が入る。奇跡的に通じていたのだ。「乾パンを管内住民に配りたい。取りに来てくれ」 たった一人で腰までの水をかき分けて支所にたどり着くとボートに乾パンを積み、一人で押して町会事務所に配って回った。滑って泥水をのみ、水流に押されボートが民家のガラス戸を突き破ったこともあったが家人は「こんな時だ。気にするな」と慰めてくれたという。 「今思えばまずい乾パンだったけど、みんな美味しいと喜んでくれて苦労も忘れるほどうれしかった。あのころは地域とも仲良くて何をするのも助け合った。貧しいけど良い時代でしたよ」 二日目の夜を迎え、空腹と疲労で不安が膨らんでいた時、梅島支所長が水の中をやってきた。暗い室内をのぞき込んで「誰かいるか」と叫ぶ。「一人います」「飯食ったか」「何も食ってない」「そうか、よく頑張った。にぎり飯持ってきたぞ」 その美味しかったこと。うれしくて、食べながら思わず涙がこぼれ落ちたという。その後、米軍が上陸用舟艇で二十俵ほどの救援米を運んできた。鈴木さんは一俵ずつ担いでボートに積み、また町会事務所に配って回った。肩が赤く腫れ上がっていたが、夢中だったせいか痛みも感じなかったと回想する。 泥水の中、着る物も尽き、パンツの上に女性職員が残した着替えスカートまでまとっての奮闘は五日間続いた。水が引いて職員が出て来たとき、鈴木さんの奇妙な姿にみんな目を丸くしたという。 「住民が感謝してくれたことが何よりの勇気になった。それにしてもあの濁流の中、病気もせず、よく頑張れたと思う。若さの力はすごいですね。今では町も水害に強くなったし、思えば夢のような日々でした」 その後も長い間、台風や豪雨のたびに所内はすぐ浸水した。机の下をザリガニや、たまにドジョウが泳いでいたのを今も時折、懐かしく思い出す。(年齢などは連載当時のものです)
by tokyobojo
| 2014-07-24 07:24
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アバウト
著者プロフィール
田中哲男(たなか・てつお) 昭和39年東京新聞(中日新聞東京本社)入社。社会部、特別報道部などを経て横浜支局長、特別報道部長、東京中日スポーツ総局長、編集委員などを歴任。自著・共著に「富士異彩」(平成7年度日本新聞協会賞)「翔べカルガモの子よ」「今どきの若者たち」「荒川新発見」など。平成16年、東京新聞創刊百二十年を記念して横浜の日本新聞博物館で「創刊百二十年展」を担当、同時に本紙の歩み「日々激動」を長期連載、出版。近著に「焦土からの出発」。平成19年度中日新聞社特別功労賞。東京生まれ。
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