『東京慕情』

tokyobojo.exblog.jp
ブログトップ
2014年 07月 21日

佃島物語・上

激変の情景 消えゆく古老
---------------------------------------------

 昭和三十年代まで隅田川を彩った「佃の渡し」が消えて四十二年。江戸の情景を宿した佃島は新しい街へ激変し、島を襲った関東大震災や手漕ぎの渡し船が往来したころの日々は急速に風化しつつある。

 中央区佃は超高層ビルがひしめく新旧混在の街だが、半世紀前までは木造家が寄り添う素朴な街だった。昭和三十四年夏「渡し船を描くため幾度も通った」という下町の風景画家小針美男さん(79)は画集「追憶の東京」(河出書房新社)の中で渡船場の風景をこう描いている。

 「佃の渡しに夕暮れが近づいている。河口に近いせいか潮の匂いがちょっぴりする。子供が一人欄干に寄ってはるか彼方に見える勝鬨橋の方に見入っていた。二つに分かれた鋼鉄のトラスにはどっしりした重厚さがある。それでいて美しい近代的詩情が川面に反映している」

 車の騒音もなく、一日の終わりを告げる静かな夕景が目に浮かぶようだ。当時、島への往来には多くの人が渡し船を利用した。動力船が客船を引く仕組みで、朝夕は十五分間隔で築地明石町を往来し、勤め人から地元人、自転車まで運び続けた。小針さんは「船の狭い階段を下りるとレンガ色の革張り座席があって、いろんな人が乗ってにぎやかだった」という。

(↓ 隅田川を走る佃の渡しを築地側の水辺から眺める子供たち。対岸の佃島は瓦屋根の多い素朴な町だった)
f0356843_15442479.jpg
 壁には救命胴衣や浮輪がぶら下がり、張り紙に「落ちた人が有りましたら、浮環を投げてください」とあった。いかにも下町らしい心遣いである。

 そのころ佃の渡しを対岸の築地明石町から撮った写真が本紙に残っている。水辺で船を眺める子供たち。佃側には瓦屋根が並び、右端に佃煮で有名な「天安」の看板が見える。店名の由来は、天保(一八三七)八年に創業した初代が安吉といったので天安と命名したそうだ。

 佃の戦後を聞きたくて店を訪ねたところ、四代目店主の宮田松之助さんが昨年十二月末に亡くなられたことを知った。八十六歳。島で産湯を使った数少ない佃っ子だった。島の語り部がまた一人消えたわけである。

 その天安のすぐ近くに住む金子敏雄さん(87)は、宮田さんと同じ大正八年の佃島生まれで佃島尋常小学校で机を並べた同級生だ。今もかくしゃくとして一丁目町会長を務めている。四歳の時、今では歴史のかなたの関東大震災を「ここで体験した」というのだから「すごい」というほかない。

 そのとき金子さんの父親たち一丁目男衆のすさまじい働きぶりは今も伝説だという。

 「猛火が家を焼いてどんどん迫ってきた。男衆は女子供を伝馬船で避難させると、みんな水をかぶって屋根に上がり、飛び来る火の粉をはたき、桶の水をまいて必死に家を守ったんだ。その勇壮な姿はまるで仁王様のようだった。火の手は二丁目まで焼き尽くしたが、そんな男衆の決死の働きで一丁目は火災を免れたんだよ」

 戦争で空襲を免れた佃島は戦後も古い船だまりが残り、両側には木造家が立ち並び漁船が連なっていた。魚介にかかわる家が多く、金子さんの家も代々魚河岸で商売をして昔から渡し船で通ったという。「大正末期はまだ手漕ぎ舟で私も乗った覚えたある」と。そんな時代を生き抜いた者が昭和の終わりまではたくさんいたのだが・・・。

 江戸を宿す風景が変貌し始めるのは昭和三十年代後半だ。急増する交通量に対応するため昭和三十九年八月二十七日、島を結ぶ佃大橋が完成し、渡しは役目を終えて、隅田川から消えていく。

 「最後の渡し船が岸を離れた時、町会役員だった私は蓄音機を回して『蛍の光』を流したんだ。涙が流れてね。忘れもしない光景だよ」

(↓ 佃の渡しと街並み=昭和37年2月)
f0356843_15483772.jpg
 それからの佃島の変化はめまぐるしい。高層ビルが林立し、新住民が増え、古老が次々逝って・・・。別れ際、夜の船だまりで金子さんは深いため息をついた。

 「佃島で産湯を使い、関東大震災を知る者は、一丁目ではもう二、三人かなあ。街も人もあまりにも変わりすぎた。江戸の昔から生き続けた佃島の匂いや伝統も、新しい時代の中にやがては消えてしまうだろうな。さみしいねえ」(年齢などは2007年の連載当時のものです)






                         ー TOP頁へ ー






[PR]

by tokyobojo | 2014-07-21 07:21


<< お化け煙突      佃島物語・下 >>